2009年12月05日

もともと日本では神道の風習で

もともと日本では神道の風習で、川や滝で行われた沐浴の一種と思われる禊(みそぎ)の慣習が古くより行われていたと考えられている。

仏教が伝来した時、建立された寺院には湯堂、浴堂とよばれる沐浴のための施設が作られた。もともとは僧尼のための施設であったが、一般民衆への開放も進んだといわれている。特に、光明皇后が建設を指示し、貧困層への入浴治療を目的としていたといわれる法華寺の浴堂は有名である。当時の入浴は湯につかるわけではなく、薬草などを入れた湯を沸かしその蒸気を浴堂内に取り込んだ蒸し風呂形式であった。

平安時代、鎌倉時代になると寺院にあった蒸し風呂様式の浴堂の施設を、上級の公家や武家の屋敷内に取り込む様式が現れる。『枕草子』などにも、蒸し風呂の様子が記述されている。次第に宗教的意味が薄れ、衛生面や遊興面での色彩が強くなったと考えられている。

浴槽にお湯を張り、そこに体を浸かるというスタイルがいつ頃発生したかは不明である。古くから桶に水を入れて体を洗う行水というスタイルと、蒸し風呂が融合してできたと考えられている。この入浴方法が、一般化したのは江戸時代に入ってからと考えられている。
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だが、漢方医の間では、入浴の習慣が広まることに危機感を覚えるものもいた。いわゆる後世派と呼ばれる医師たちは温泉療法以外による入浴は体内の気を乱して体に悪影響を与えると考えていた。貝原益軒の『養生訓』にも10日に1度ぬるま湯に沐浴すれば良く、それ以上の入浴は却って毒となると書かれている。だが、古方派とされる医師たちは実証主義観点から、適度な入浴は気の循環を良くして体内の毒物を外部に排出するのを助けると論じ、蘭方医も皮膚に垢が付着することの危険性を論じて、「入浴害毒論」を批判している。

2009年11月29日

反日感情

反日感情(はんにちかんじょう)とは、日本や日本人に対して抱いている反感をさす言葉である。ただし日本国内のある特定の勢力が用いる場合、日本国外からの彼らの政治的・歴史的主張への批判をも含むことが少なくない。そのため使用者によって指し示す対象が大きく異なる場合も少なくない。本項目ではそのようなものもまとめて「反日」として扱う。

東アジア・東南アジアにおける「反日」感情は、明治から昭和戦前にかけての日本の対外膨張政策に主な原因があるとされる。これらの諸国との間にはいまだに歴史認識等で軋轢があり、とりわけ中国と大韓民国からの日本の保守派への歴史的・政治的批判は日本国内でも頻繁に報道されている。
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一方で、これらアジアの人々からの日本批判の根底にある「反日」感情については、特に日本の右派・保守派は、その中核となっている中国・朝鮮半島の「反日」感情を様々な洗脳教育によって人為的に形成・増幅された特殊な感情と認識しており、糾弾・侮蔑すべき人種差別とさえみなしている。多くの日本国民も、中国と朝鮮半島の人々が突然傲慢不遜な形で示す「反日」感情そのものを反作用的に問題視するようになっている。このため、洗脳教育的な「反日」感情の露わな中国と朝鮮半島とを「特亜(特定アジア)」と区別するなどして、中国・韓国・北朝鮮のイデオロギー的な「反日」感情とその他の地域の自然な「反日」感情とを区別して取り扱うことが一般的となって来ている。世界各国を対象とした各種の調査でも「特定アジア」のみが日本を肯定的に考える人数よりも否定的に考える人数のほうが多い結果が出ている。

また、韓国では「百済」というインディーズバンドが歌っている日本人を障害者と罵倒する曲がヒットするなど、民度ある国家とはとても言えない現象が発生している。

2009年11月25日

誕生寺 (鴨川市)

誕生寺(たんじょうじ)は、千葉県鴨川市小湊にある、日蓮宗の大本山。山号は小湊山。日蓮の誕生を記念して出身地に建立された。
1276年(建治2年)10月、日蓮の弟子の日家が日蓮の生家跡に、高光山日蓮誕生寺として建立。しかし、その後、1498年(明応7年)、1703年(元禄16年)の2度の大地震、大津波に遭い、現在地に移転された。

その後、26代日孝が水戸光圀の外護を得て七堂伽藍を再興し、小湊山誕生寺と改称したが、1758年(宝暦8年)に、仁王門を残して焼失し、1842年(天保13年)に49代目闡が現存する祖師堂を再建した。   近代に入り、大正天皇の病気平癒の廟所が建立された。その後、昭和から平成にかけて、50万人講を発願して諸堂を復興、平成4年5月に落慶法要が行われた。
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江戸時代の不受不施派(悲田宗)禁政のため幕命により天台宗に改宗するところだったが身延山が日蓮誕生地の由緒で貰いうけ一本山に格下げ(悲田宗張本寺の谷中感応寺、碑文谷法華寺は天台宗に改宗された。現谷中天王寺、碑文谷円融寺)。昭和21年大本山に復帰。
現住は84世石川日命貫首(本山水戸久昌寺より晋山)。潮師法縁。
仁王門
1706年(宝永3年)建立。平成3年大改修。間口8間。宝暦の大火の際焼け残った誕生寺最古の建造物。両側の仁王像は松崎法橋作。楼上の般若の面は左甚五郎作とされる。千葉県指定建造物。
本堂
平成3年10月建立。間口7.8間、奥行き8.8間の単層入母屋造り本瓦葺。水戸光圀の寄進による十界本尊木像(大仏師左京康裕作)がある。天井に仏教植物の天井画(石川響筆)82枚。日家、日保像等が安置される。
祖師堂
1842年(天保13年)建立。総けやき造り雨落ち18間4面。高さ95尺。建材は江戸城改築用として、伊達家の藩船が江戸へ運ぶ途中遭難し、譲りうけたもの。日蓮像が安置される。

2009年11月07日

社会がより複雑化

社会がより複雑化、国家などの形成にともない、権力者の下に莫大な富が集約されるなど、社会構造がより巨大化していったが、その過程で職人としての職業画家が台頭し始めるようになる。彼らは権力者、あるいはその権力者の庇護を受ける宗教家の求めに応じ、大規模な作品を制作するようになる。この時代において、宗教施設・城塞などの軍事拠点・権力者の生活空間を彩るものとして制作された絵画が現存している。この時代以降、優秀な画家は無名の職人ではなく、名の知られた芸術家としての地位を築くようになっていった。

近世においては分業化も進行、美術家としての地位から、ときの支配者層とも対等に扱われたり、絵画制作場所としてアトリエを構えるなど一定の社会的地位を獲得している。ただしこの当時のアトリエは、美術活動の場というよりも、根源的な工房としての性質も根強い。

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この時代において画家の活動も組織化され、アトリエでは師弟関係にある画家の集団が肖像画のような記録映像としての絵画から、装飾美術的な作品まで幅広く手掛け、抽象的ないし象徴的な絵画も数多く制作されるようになっていった。西欧を中心としたルネサンスのような美術にまつわる社会運動も発生している。
近代では、美術絵画は確固とした社会的地位を得て、美術の様式にも様々な方向性が発生している。社会が産業革命を経て豊かになっていったこの時代、絵画の制作は職人や芸術家だけのものではなく、趣味としての活動にも広まりを見せ、更には広告など大衆文化にも影響を与えるような商業美術も盛んになっていった。

2009年10月29日

極板の種類による区分

クラッド式
ガラス繊維をチューブ状に編み上げて焼き固めたものの中に極板活物質を充填したもので構成される極板。正極板のみに採用されている。蓄電池の耐久性が向上し、主に産業用の長寿命タイプの蓄電池やフォークリフト用の蓄電池に使用されている。
ペースト式
格子体と呼ばれる極板の骨組みにペースト状にした活物質を塗り込んで極板にしたもの。正極板にも負極板にも採用されている。極板の反応面積を増やし、短時間で大電流放電させる用途の蓄電池を作ることが可能となる。
チュードル式
現在、日本では製造されていない極板。一部の海外製鉛蓄電池で現存。
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ベント形鉛蓄電池
電解液の入った電槽の中に極板群を挿入して構成される、鉛蓄電池発明当時から存在していた構造のもの。液式電池と呼ばれることもある。使用において、充電中に起こる水の電気分解反応や自然蒸発によって電解液中の水分が失われるため、適宜精製水を補給する必要がある。この補水作業を簡略化する為、触媒栓というものを蓄電池に取り付け、水の電気分解によって発生した酸素は逃がし、水素ガスのみを吸着させ、放電時に空気中の酸素を利用して水素を元の水に戻す機能を持たせることもある。電解液比重を測定することにより容量の状態等を把握することが出来るが、点検作業等において保守が面倒であるという難点を持つ。自動車や小型飛行機に使用しているのはこのタイプである。
制御弁式鉛蓄電池
1980年代半ばより登場したもので、セパレータ(隔離板)には微細ガラスマットを用い、電解液をそのガラスマットに保持する方式をとった構造のもの。

2009年10月18日

バッタ対策としては

バッタ対策としては、小規模な発生が起こった次の世代の発生を防ぐことが重要である。バッタが卵の時期には殺虫剤の効果が薄く、一方、成虫となって飛翔できるようになってからの駆除は困難なので、幼虫の内の駆除が必要である。そのため、まずは産卵地データの収集から始まる。
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幼虫の駆除に対して、FAOは機械的な除去、農薬を使っての除去の2つを併用して対策している。例えばアフガニスタンで2005年5月に行われた作戦では、21,000ヘクタールは機械で除去、81,000ヘクタールは合成ピレスロイドを使っての化学的駆除を行っている。FAOの8月の報告によると、バッタの発生時期と上手く重なったこともあってこの作戦は成功し、産卵が減ったために2006年には大幅に対策地域を減らすことに成功したという。また、2006年からは昆虫に対する接触毒であるジフルベンズロンの併用も始めている。

殺虫剤は広範囲に撒かれるため、人体や環境への影響も十分に考慮する必要がある。これらへの影響を完全にゼロにすることは困難で、通常はバッタの被害と比較しての実施がなされる。ただし、パラチオンやジクロルボスなど、世界保健機構(WHO)によりきわめて危険(クラス1a)、かなり危険(クラス1b)とされたもの[13]は使用されない。

現在主に使われているのは、超低量散布という技術である。車両搭載された空中噴霧器を使ってバッタの移動予想地点に濃厚な殺虫剤が少量散布され、バッタが殺虫剤の付いた餌を食べたり上を歩いたりすることで死亡する。この技術は各国の政府機関の要請を受けた東アフリカ移動性バッタ防除機構などによって実施される。

2009年06月19日

電子顕微鏡には、大きく分けて下記の2種類がある

透過型電子顕微鏡 (Transmission Electron Microscope; TEM)
観察対象に電子線をあて、それを透過してきた電子を拡大して観察する顕微鏡。対象の構造や構成成分の違いにより、どのくらい電子線を透過させるかが異なるので、場所により透過してきた電子の密度が変わり、これが顕微鏡像となる。電磁コイルを用いて透過電子線を拡大し、電子線により光る蛍光板にあてて観察したり、フィルムやCCDカメラで写真を撮影する。観察対象を透かして観察することになるため、試料をできるだけ薄く切ったり、電子を透過するフィルムの上に塗りつけたりして観察する。
走査型電子顕微鏡 (Scanning Electron Microscope; SEM)
観察対象に電子線をあて、そこから反射してきた電子(または二次電子)から得られる像を観察する顕微鏡。走査型の名は、対象に電子線を当てる位置を少しずつずらしてスキャン(走査)しながら顕微鏡像が形づくられることから。電子は検出器に集められ、コンピュータを用いて2次元の像が表示される。
対象の表面の形状や凹凸の様子、比較的表面に近い部分の内部構造を観察するのに優れている。観察対象が導電性のないものの場合、電子線をあて続けると表面が帯電してしまい、反射する電子のパターンが乱れるため、観察対象の表面をあらかじめ導電性を持つ物質で薄くコーティングしておくことが行われる。
また、両者の特徴を合わせ持つ走査型透過電子顕微鏡 (Scanning Transmission Electron Microscope; STEM) も近年注目されつつある。
クラシック音楽
南極と北極
への付く言葉
ザ・和歌山
産業とは!
世界の演劇
慣用句集
かの付く言葉
七五三
靴に囲まれて
自転車
婦人科
香道
遺伝子疾患
洞窟
ジョギング
債券
クリケット
通訳
アメリカンフットボール

電子顕微鏡の歴史 [編集]
磁場の電子線に対するレンズ作用を実験で示したのは1927年ドイツのハンス・ブシュ(Hans Busch) である。最初の電子顕微鏡 (TEM) は1931年にベルリン工科大学のマックス・クノールとエルンスト・ルスカが開発した。さらにルスカは性能を高め、この功績で1986年にノーベル物理学賞を受賞した。シーメンスの科学ディレクターだったユダヤ系ドイツ人のレインホールド・ルーデンベルグ(en:Reinhold Rudenberg)が1931年、特許をとり、1938年に電子顕微鏡を売り出す。走査形電子顕微鏡 (SEM) は1937年マンフレート・フォン・アルデンヌ (Manfred von Ardenne) によって製作された。1950年代から多くの分野で活用された。さらに短波長の電子線(加速電圧の向上)などによって性能は向上した。

日本では瀬藤象二が国産化のための技術開発に貢献した。

利用 [編集]
生物学の分野では、電子顕微鏡の利用は大きな影響を与えた。ウイルスの発見や、細胞小器官の構造など、得られたものは大きい。電子顕微鏡によって観察できるような微細な構造のことを微細構造 (Ultrastructure) という。 また、材料学においても転位や積層欠陥等材料の特性を決定する欠陥構造の解明、カーボンナノチューブをはじめとするナノ構造材料の発見と構造解析におおきな役割をはたしてきた。

2009年06月01日

師団長の権限等

師団長と師団は、その管掌事項が軍事面[4]に、管轄区域が師管区に限られ、軍政および人事に関しては陸軍大臣から、動員計画および作戦計画に関しては参謀総長から、教育に関しては教育総監から、それぞれ区処を受けるものの、天皇直属であるということでは総理大臣及びその管掌する政府と同じであり、師団長の地位は高く、帷幄の機関の長として統帥事項に深く関わる陸軍大臣や参謀総長には及ぶべくも無いものの、陸軍次官や参謀次長よりは上位であった。しかし師団が増設され数が増えるに従い師団長の地位も次第に低下した。

「師団司令部条例」(明治21年5月12日勅令第27号)によると、師団長の権限等としては次のものがあった。
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中将を以て補し、直に天皇に隷し、師管区内にある軍隊を統率し、軍事に係る諸件を総理する。
師管区内軍隊の出師準備を整理しまた徴兵のことを統括する。
部下軍隊の練成についてその責に任ずる。但し、特科兵専門のことは、当該兵監の責任に属する。
不慮の侵襲に際し、師管区内の防御及び陸軍諸官庁、諸建築物の保護に任ずる。
府県知事が、地方の静謐を維持するため、兵力を請求するときは、事が急ならば、師団長は直ちに応じて、後に陸軍大臣及び参軍(後の参謀総長に相当する。)に報告しなければならない。府県知事が請求できない例外の場合にあっては、師団長は兵力を以て便宜事に従うことができる(自衛隊における治安出動に相当する。)。
師管区内にある軍隊及び陸軍官庁における風紀、軍紀を統監し、軍法会議を管轄する。
師団長が赴任する節には、師団司令部所在地の府県知事、警視総監、大審院長、控訴院長、検事長、始審裁判所長及び検事上席の者とは3日以内に互いに訪問し、その師管内の府県知事、控訴院長、検事長、始審裁判所長及び検事上席の者とは30日以内に互いに移文訪問しなければならない。但し、共に官等卑しい者より先んじなければならない。

2009年04月29日

座(ざ)

座(ざ)は、平安時代から戦国時代まで存在した主に商工業者や芸能者による同業者組合のこと。朝廷や貴族・寺社などに金銭などを払う代わりに営業や販売の独占権などの特権を認められた。

座という呼び名の由来については、公的な場所や市場内における特定の座席という意味に由来するとする説と同業者による集会の場という意味に由来するとする説の2説があり長年議論の対象となってきた(「座論争」)が、今日では座とは本来は一定の有資格者が一同に会する場を指し、両方の意味合いを有していたとする説が有力である。また、地縁的結合をもって結成される場合もあり、「里座」・「町座」と呼ばれる里単位・町単位の座も結成された。座は公家や寺社を本所として座役を納め、あるいは奉仕を行い、本所は座の構成員である座衆に供御人・寄人・神人などの身分を与えてこれを保護した。

記録上に残る最古の座は青蓮院を本所とする八瀬里座で杣伐夫や駕輿丁によって構成されて青蓮院の本山である延暦寺や朝廷に奉仕を行い、後の八瀬童子の源流となった。鎌倉時代に入ると大都市や商工都市を中心として座の数が増加するようになる。代表的なものとしては京都においては後の西陣の源流となった大舎人の織手座や祇園社の綿座・錦座、北野社の麹座、山城大山崎の油座、摂津今宮の魚座、鎌倉の材木座、博多の油座などがあり、大和の興福寺や近江の日吉大社も多数の座を支配下に置いたことで知られていた。

健康・健康関連スキンケアCOM
信託・建売関連ビジネスビジネス紹介
セキュリティ・クレジット関連快適生活ナビ
介護・精神医学関連健康家族サーチ
リンネソウプライムショッピングガイド
イーダッシュ教育ジャンプCOM
動物園・交通関連国内旅行特集COM
脂肪吸引・理容関連キレイ・美容全国情報ガイド
内職・調査関連ビジネスワールド紹介
運勢・結婚関連生活雑貨情報

座は仕入の独占を行い、必要に応じてはその商品の運搬路や運送具の独占すら行った。また、本所の政治力を背景として関所における通行税や市場における営業税の免除の特権を獲得した。その一方で自己の専売を確立した市場では座外の商人・職人の営業を禁止して座衆による独占を図り、座に属する小規模業者の維持に努めた。また、座同士の連携なども盛んに行われ、生産地の座と消費地の座が連携したり、大都市の座が地方の座を支配したりすることが行われた。

だが、室町時代に入ると座を取り巻く環境に変化が生じるようになる。京都における官衙を含めた領主権力が強化され、座の権威を無視して営業税をかけたり、地方の商工業者が地元の領主と結びついて座の権威打破を図ろうとした。こうした中で座も変質していき、本所から自立した営業集団に転化したり、官衙や領主との結びつきを強めて中にはこれらを新たな本所するものが出現したり、座衆の数を制限して世襲特権化を図ろうとした。それに対して新興商人側も「新座」と呼ばれる座を結成して既成の座と同様の特権を求める動きが現れ、更に「孫座」と呼ばれる第三の座すら現れる例もあった。

織田信長が新都市に楽市・楽座をおこない、最終的に豊臣秀吉によって中世の座は解体させられた。これによって座の特定は否認されたが、反対に領主と結びついた特定の御用商人による支配が確立するきっかけとなった。ただし、全ての座が解体した訳ではなく、座役を伴わない商業共同体として残ったものもある。また、芸能者では主要な大夫を家元とする芸能集団としての座が形成され、江戸時代以後に「○○座」という呼称で呼ばれるようになり、転じて劇場や映画館の名称としても用いられた。

江戸時代には幕府の管理下に金座・銀座などが作られた。

2009年04月14日

漢王劉邦

覇上に引き上げた劉邦はこの地に関中の父老(村落のまとめ役)を集めて“法三章”を宣言する。これは秦の万般仔細に及ぶ上に苛烈な法律(故に役人が気分次第で罰を与えたりも出来、特に政道批判の罪による処罰はいいがかりとしても多用された)を「人を殺せば死刑。人を傷つけたものは処罰。人の物を盗んだものは処罰」とだけに改めたものである。この施策によって関中に於ける劉邦の人気は一気に高まり、劉邦が王にならなかったらどうしようと話し合うほどになった。後世、「法三章」は簡便な法律を表す法諺となっている。

その頃、東から項羽が関中に向かって進撃してきていた。劉邦はある人の「あなたが先に関中に入ったにも係わらず、項羽が関中に入ればその功績を横取りする。関を閉じて入れさせなければあなたが関中の王のままだ」というを進言を聞いて、関中を守ろうとして関中の東の関門である函谷関に兵士を派遣して守らせていた。劉邦が関中入りできた最大の要因は秦の主力軍を項羽が引き受けたことにあり、それなのに劉邦は既に関中王になったつもりで函谷関を閉ざしていることに激怒した項羽は、英布に命じてこれを破らせた。項羽は関中に入り、先の激怒と軍師范増の進言もあって、40万の軍で攻めて劉邦を滅ぼしてしまおうとした。劉邦の部下である曹無傷は、これに乗じて項羽に取り入ろうと「沛公は関中の王位を狙い、秦王子嬰を宰相として関中の宝を独り占めにしようとしておりまする」と讒言したので、項羽はますます激怒した。

劉邦はこの危機を打開しようと焦っていたが、ちょうどその時、項羽の叔父である項伯が劉邦軍の陣中に来ていた。項伯はかつて張良に恩を受けており、その恩を返すべく危機的状況にある劉邦軍から張良を救い出そうとしたのである。しかし張良は劉邦を見捨てて一人で生き延びる事を断り、項伯を劉邦に引き合わせて何とか項羽に弁明させて欲しいと頼み込んだ。項伯の仲介が功を奏し、劉邦と項羽は弁明のための会合を持つ。この会合で劉邦は何度となく命の危険があったが、張良や樊噲の働きにより虎口を脱した。項羽は劉邦を討つ気が失せ、また弁明を受け入れたことで討つ名目も失った。これが鴻門の会である。陣中に戻った劉邦は、まず裏切者の曹無傷を処刑してその首を陣門に晒した。

その後、項羽は彭城に戻って“西楚の覇王”を名乗り、名目上の王である懐王を義帝と祭り上げて辺境に流し、これを殺してしまった。紀元前206年、項羽は諸侯に対して封建(領地分配)を行う。しかしこの封建は非常に不公平なもので、その基準は功績ではなく、項羽との関係が良いか悪いかに拠っていたため多くの不満を買い、すぐ後に次々と反乱が起きるようになる。劉邦にも約束の関中の地ではなく、その西側の一地方であり奥地・辺境である漢中及び巴蜀が与えられた。劉邦を「左に遷す」と言ったことから、これが左遷の語源になったと言われている(もっとも当時において、「関中」には単に関中盆地のみを指す場合と統一以前の秦の領土全域を指す用法があって、両方の用法が併用されていた。つまり後者の用法に従えば、関中を与えるという約束が果たされたと言えなくもない)。さらに劉邦の東進を阻止するために、関中は章邯ら旧秦軍の将軍3人に分割して与えられた。

当時の漢中は、流刑地とされる程の非常な辺境であった。そこへ行くには蜀の桟道と呼ばれる人一人がやっと通れるような道があるだけで、劉邦が連れていた3万の兵士は途中で多くが逃げ出し、残った兵士も東に帰りたいと望んでいた。

ちなみに、関中入りしても秦王の命を奪わず宝物もそのままにした劉邦に対し、項羽は降伏した子嬰ら秦王一族や官吏4千人を皆殺しにし、宝物を持ち帰り、華麗な宮殿を焼き払い、更に始皇帝の墓を暴いて宝物を持ち出している。このことが、人心が項羽から離れて劉邦に集まる一因となっている。

漢楚戦争 [編集]

項羽との対決 [編集]
この時期に劉邦陣営に新たに加わったのが韓信である。韓信は元は項羽軍にいたがその才能がまったく用いられず、劉邦軍へと鞍替えしてきたのである。最初は単なる兵卒や下級将校であったが、やがて韓信の才能を見抜いた蕭何の推挙により、大将軍となった。その際に韓信は、「項羽は強いがその強さは脆いものであり、特に処遇の不満が蔓延しているため東進の機会は必ず来る。劉邦は項羽の逆を行えば人心を掌握できる」と説いた。また、「関中の三王は20万の兵士を犠牲にした秦の元将軍であり、人心は付いておらず関中は簡単に落ちる。劉邦の兵士たちは東に帰りたがっており、この帰郷の気持ちをうまく使えば強大な力になる」と説いた。劉邦はこの進言を全面的に用いた。

そして韓信の予言通り、項羽に対する反乱が続発し、項羽はその鎮圧のため常勝ながら東奔西走せざるを得なくなる。項羽は劉邦にも疑いの目を向けたが、劉邦は張良の策によって桟道を焼き払って漢中を出る意志がないと示し、更に項羽に対して従順な文面の手紙を出して反抗する気がないように見せかけていた。これで項羽は安心し、反乱を起こしていた斉の田栄を討伐に向かった。

それを見た劉邦は、桟道以前に使われていた旧道を通って関中に出撃し、一気に章邯らを破って関中を手に入れ、ここに社稷を建てた。

一方、遠征先の斉でも、項羽は相変わらず城を落とすたびにその住民を皆殺しにする蛮行を繰り返したため、斉の人々は頑強に抵抗した。このため項羽は斉攻略にかかり切りになり、その隙に乗じた劉邦はさらに東へと軍を進め、途中の王たちを恭順・征服しながら項羽の本拠地・彭城を目指した。

大敗 [編集]
紀元前205年、劉邦は味方する諸侯との56万と号する連合軍を引き連れて彭城へ入城した。入城した漢軍は勝利に浮かれてしまい、日夜城内で宴会を開き、女を追い掛け回すという有様となった。一方、彭城の陥落を聞いた項羽は自軍から3万の精鋭を選んで急いで引き返し、油断し切っていた漢軍を散々に打ち破った。この時の漢軍の死者は10万に上るとされ、川が死体のためにせき止められたという。劉邦は慌てて脱出したが、劉太公と呂雉が楚軍の捕虜となってしまった。この大敗で、それまで劉邦に味方していた諸侯は一斉に楚になびいた。

劉邦は夏侯嬰と劉盈(恵帝)と魯元公主と一緒に馬車に乗り、夏侯嬰が御者となって楚軍から必死に逃げていた。途中で追いつかれそうになったので、劉邦は車を軽くするために二人の子供を突き落とした。あわてて夏侯嬰が二人を拾ってきたが劉邦はその後も落とし続け、その度に夏侯嬰が拾ってきた(「親から子は生まれるが、子から親は生まれない。」という事で、親である劉邦を保全するために子を犠牲にするというのは、儒教的倫理からすればそれほど非難されるものではない)。

劉邦は碭で兵を集めて一息ついたものの、ここで項羽に攻められれば防ぎ切れないことは明らかだったので、随何に命じて英布を味方に引き込もうと画策し、これに成功した。しかし英布は楚の武将・龍且と戦って破れ、劉邦の元へと落ち延びてきた。劉邦は道々兵を集めながら軍を滎陽(河南省滎陽)に集め、周囲に甬道(壁に囲まれた道)を築いて食料を運び込ませ、篭城の用意を整えた。この時期、劉邦の幕僚に謀略家・陳平が加わっている。

その一方、別働隊に韓信を派遣し、魏・趙を攻めさせて項羽を背後から牽制しようとした。また元盗賊の彭越を使い、項羽軍の背後を襲わせた。

紀元前204年、楚軍の攻撃は激しく、甬道も破壊されて漢軍の食料は日に日に窮乏してきた。ここで陳平は項羽軍に離間の計を仕掛け、項羽とその部下の范増・鍾離昧との間を裂く事に成功する。范増は軍を引退して故郷に帰る途中、怒りの余り、背中にできものを生じて死亡した。

離間の計は成功したものの漢の食糧不足は明らかであり、将軍の紀信を偽の劉邦に仕立てて項羽に降伏させ、その隙を狙って劉邦本人は西へ脱出した。その後、滎陽は御史大夫の周苛が守り、しばらく持ちこたえたものの項羽によって落とされた。

西へ逃れた劉邦は関中にいる蕭何の元へ戻り、蕭何が用意した兵士を連れて滎陽を救援しようとした。しかし袁生が、真正面から戦ってもこれまでと同じことになる、南の武関から出陣して項羽をおびき寄せる方がいいと進言。劉邦はこれに従って南の宛に入り、思惑通り項羽はそちらへ向かった。そこで項羽の後ろで彭越を策動させると、こらえ性のない項羽は再び軍を引き返して彭越を攻め、その間に、劉邦も引き返してくる項羽とまともに戦いたくないので、北に移動して成皋(河南省氾水)へと入った。項羽は戻ってきてこの城を囲み、劉邦は支えきれずに退却した。

夏侯嬰のみを供として敗走していた劉邦は、韓信軍が駐屯していた修武(河南省獲嘉)へ行って、韓信が陣中で寝ているところに入り込み、韓信の軍隊を取り上げた。更に劉邦は韓信に対して斉を攻めることを命じ、曹参と漢嬰を韓信の指揮下とした。また盧綰と従兄弟の劉賈には項羽の本拠地である楚へ派遣し後方撹乱を行わせた。

韓信はその軍事的才能を遺憾なく発揮し、斉をあっさりと下し、楚から来た20万の軍勢と龍且をも打ち破った。ただ斉を攻める際に手違いがあり、斉に漢との同盟を説きに行った酈食其が殺されるという事が起きている。

再び敗れる [編集]
紀元前203年、劉邦は項羽と対陣して堅く守る作戦をとっていたが、一方で項羽の後ろで彭越を活動させ、楚軍の兵站を攻撃させていた。項羽は部下の曹咎に「15日で帰るから手出しをしないで守れ」と言い残して出陣し、彭越を追い散らしたが、曹咎は漢軍の挑発に耐えかねて出陣し、大敗していた。漢軍は項羽が帰ってくると再び防御に徹し、項羽が戦おうと挑んでもこれに応じなかった。

その頃、韓信は斉を完全に制圧し、劉邦に対して鎮撫のため仮の斉王になりたいとの使者を送ってきた。これを聞いた劉邦は怒って声を荒げそうになったが、それを察知した張良と陳平に足を踏んで諫められ、もし韓信が離反してしまえば取り返しがつかないことを悟り、韓信を正式な斉王に任命した。

漢楚両軍は長い間対峙を続け、しびれを切らした項羽は捕虜になっていた劉太公を引き出して大きな釜に湯を沸かし「父親を煮殺されたくなければ降伏しろ」と迫ったが、劉邦はかつて項羽と義兄弟の契りを結んでいた事を持ち出して「お前にとっても父親になるはずだから殺したら煮汁をくれ」とやり返した。次に項羽は「二人で一騎打ちをして決着をつけよう」と言ったが、劉邦は笑ってこれを受けなかった。そこで項羽は弩の上手い者を伏兵にして劉邦を狙撃させ、矢の一本が胸に命中した劉邦は大怪我をした。これを味方が知れば全軍が崩壊する危険があると考え、劉邦はとっさに足をさすり、「奴め俺の指に当ておった」と言った。その後劉邦は重傷のため病床に伏せたが、張良は劉邦を無理に立たせて軍中を回らせ、兵士の動揺を収めた。

一方、彭越の後方攪乱によって楚軍の食料は少なくなっていた。もはや漢も楚も疲れ果て、天下を半分に分ける事を決めて講和した。この時、劉太公と呂雉は劉邦の下に戻ってきている。

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