覇上に引き上げた劉邦はこの地に関中の父老(村落のまとめ役)を集めて“法三章”を宣言する。これは秦の万般仔細に及ぶ上に苛烈な法律(故に役人が気分次第で罰を与えたりも出来、特に政道批判の罪による処罰はいいがかりとしても多用された)を「人を殺せば死刑。人を傷つけたものは処罰。人の物を盗んだものは処罰」とだけに改めたものである。この施策によって関中に於ける劉邦の人気は一気に高まり、劉邦が王にならなかったらどうしようと話し合うほどになった。後世、「法三章」は簡便な法律を表す法諺となっている。
その頃、東から項羽が関中に向かって進撃してきていた。劉邦はある人の「あなたが先に関中に入ったにも係わらず、項羽が関中に入ればその功績を横取りする。関を閉じて入れさせなければあなたが関中の王のままだ」というを進言を聞いて、関中を守ろうとして関中の東の関門である函谷関に兵士を派遣して守らせていた。劉邦が関中入りできた最大の要因は秦の主力軍を項羽が引き受けたことにあり、それなのに劉邦は既に関中王になったつもりで函谷関を閉ざしていることに激怒した項羽は、英布に命じてこれを破らせた。項羽は関中に入り、先の激怒と軍師范増の進言もあって、40万の軍で攻めて劉邦を滅ぼしてしまおうとした。劉邦の部下である曹無傷は、これに乗じて項羽に取り入ろうと「沛公は関中の王位を狙い、秦王子嬰を宰相として関中の宝を独り占めにしようとしておりまする」と讒言したので、項羽はますます激怒した。
劉邦はこの危機を打開しようと焦っていたが、ちょうどその時、項羽の叔父である項伯が劉邦軍の陣中に来ていた。項伯はかつて張良に恩を受けており、その恩を返すべく危機的状況にある劉邦軍から張良を救い出そうとしたのである。しかし張良は劉邦を見捨てて一人で生き延びる事を断り、項伯を劉邦に引き合わせて何とか項羽に弁明させて欲しいと頼み込んだ。項伯の仲介が功を奏し、劉邦と項羽は弁明のための会合を持つ。この会合で劉邦は何度となく命の危険があったが、張良や樊噲の働きにより虎口を脱した。項羽は劉邦を討つ気が失せ、また弁明を受け入れたことで討つ名目も失った。これが鴻門の会である。陣中に戻った劉邦は、まず裏切者の曹無傷を処刑してその首を陣門に晒した。
その後、項羽は彭城に戻って“西楚の覇王”を名乗り、名目上の王である懐王を義帝と祭り上げて辺境に流し、これを殺してしまった。紀元前206年、項羽は諸侯に対して封建(領地分配)を行う。しかしこの封建は非常に不公平なもので、その基準は功績ではなく、項羽との関係が良いか悪いかに拠っていたため多くの不満を買い、すぐ後に次々と反乱が起きるようになる。劉邦にも約束の関中の地ではなく、その西側の一地方であり奥地・辺境である漢中及び巴蜀が与えられた。劉邦を「左に遷す」と言ったことから、これが左遷の語源になったと言われている(もっとも当時において、「関中」には単に関中盆地のみを指す場合と統一以前の秦の領土全域を指す用法があって、両方の用法が併用されていた。つまり後者の用法に従えば、関中を与えるという約束が果たされたと言えなくもない)。さらに劉邦の東進を阻止するために、関中は章邯ら旧秦軍の将軍3人に分割して与えられた。
当時の漢中は、流刑地とされる程の非常な辺境であった。そこへ行くには蜀の桟道と呼ばれる人一人がやっと通れるような道があるだけで、劉邦が連れていた3万の兵士は途中で多くが逃げ出し、残った兵士も東に帰りたいと望んでいた。
ちなみに、関中入りしても秦王の命を奪わず宝物もそのままにした劉邦に対し、項羽は降伏した子嬰ら秦王一族や官吏4千人を皆殺しにし、宝物を持ち帰り、華麗な宮殿を焼き払い、更に始皇帝の墓を暴いて宝物を持ち出している。このことが、人心が項羽から離れて劉邦に集まる一因となっている。
漢楚戦争 [編集]
項羽との対決 [編集]
この時期に劉邦陣営に新たに加わったのが韓信である。韓信は元は項羽軍にいたがその才能がまったく用いられず、劉邦軍へと鞍替えしてきたのである。最初は単なる兵卒や下級将校であったが、やがて韓信の才能を見抜いた蕭何の推挙により、大将軍となった。その際に韓信は、「項羽は強いがその強さは脆いものであり、特に処遇の不満が蔓延しているため東進の機会は必ず来る。劉邦は項羽の逆を行えば人心を掌握できる」と説いた。また、「関中の三王は20万の兵士を犠牲にした秦の元将軍であり、人心は付いておらず関中は簡単に落ちる。劉邦の兵士たちは東に帰りたがっており、この帰郷の気持ちをうまく使えば強大な力になる」と説いた。劉邦はこの進言を全面的に用いた。
そして韓信の予言通り、項羽に対する反乱が続発し、項羽はその鎮圧のため常勝ながら東奔西走せざるを得なくなる。項羽は劉邦にも疑いの目を向けたが、劉邦は張良の策によって桟道を焼き払って漢中を出る意志がないと示し、更に項羽に対して従順な文面の手紙を出して反抗する気がないように見せかけていた。これで項羽は安心し、反乱を起こしていた斉の田栄を討伐に向かった。
それを見た劉邦は、桟道以前に使われていた旧道を通って関中に出撃し、一気に章邯らを破って関中を手に入れ、ここに社稷を建てた。
一方、遠征先の斉でも、項羽は相変わらず城を落とすたびにその住民を皆殺しにする蛮行を繰り返したため、斉の人々は頑強に抵抗した。このため項羽は斉攻略にかかり切りになり、その隙に乗じた劉邦はさらに東へと軍を進め、途中の王たちを恭順・征服しながら項羽の本拠地・彭城を目指した。
大敗 [編集]
紀元前205年、劉邦は味方する諸侯との56万と号する連合軍を引き連れて彭城へ入城した。入城した漢軍は勝利に浮かれてしまい、日夜城内で宴会を開き、女を追い掛け回すという有様となった。一方、彭城の陥落を聞いた項羽は自軍から3万の精鋭を選んで急いで引き返し、油断し切っていた漢軍を散々に打ち破った。この時の漢軍の死者は10万に上るとされ、川が死体のためにせき止められたという。劉邦は慌てて脱出したが、劉太公と呂雉が楚軍の捕虜となってしまった。この大敗で、それまで劉邦に味方していた諸侯は一斉に楚になびいた。
劉邦は夏侯嬰と劉盈(恵帝)と魯元公主と一緒に馬車に乗り、夏侯嬰が御者となって楚軍から必死に逃げていた。途中で追いつかれそうになったので、劉邦は車を軽くするために二人の子供を突き落とした。あわてて夏侯嬰が二人を拾ってきたが劉邦はその後も落とし続け、その度に夏侯嬰が拾ってきた(「親から子は生まれるが、子から親は生まれない。」という事で、親である劉邦を保全するために子を犠牲にするというのは、儒教的倫理からすればそれほど非難されるものではない)。
劉邦は碭で兵を集めて一息ついたものの、ここで項羽に攻められれば防ぎ切れないことは明らかだったので、随何に命じて英布を味方に引き込もうと画策し、これに成功した。しかし英布は楚の武将・龍且と戦って破れ、劉邦の元へと落ち延びてきた。劉邦は道々兵を集めながら軍を滎陽(河南省滎陽)に集め、周囲に甬道(壁に囲まれた道)を築いて食料を運び込ませ、篭城の用意を整えた。この時期、劉邦の幕僚に謀略家・陳平が加わっている。
その一方、別働隊に韓信を派遣し、魏・趙を攻めさせて項羽を背後から牽制しようとした。また元盗賊の彭越を使い、項羽軍の背後を襲わせた。
紀元前204年、楚軍の攻撃は激しく、甬道も破壊されて漢軍の食料は日に日に窮乏してきた。ここで陳平は項羽軍に離間の計を仕掛け、項羽とその部下の范増・鍾離昧との間を裂く事に成功する。范増は軍を引退して故郷に帰る途中、怒りの余り、背中にできものを生じて死亡した。
離間の計は成功したものの漢の食糧不足は明らかであり、将軍の紀信を偽の劉邦に仕立てて項羽に降伏させ、その隙を狙って劉邦本人は西へ脱出した。その後、滎陽は御史大夫の周苛が守り、しばらく持ちこたえたものの項羽によって落とされた。
西へ逃れた劉邦は関中にいる蕭何の元へ戻り、蕭何が用意した兵士を連れて滎陽を救援しようとした。しかし袁生が、真正面から戦ってもこれまでと同じことになる、南の武関から出陣して項羽をおびき寄せる方がいいと進言。劉邦はこれに従って南の宛に入り、思惑通り項羽はそちらへ向かった。そこで項羽の後ろで彭越を策動させると、こらえ性のない項羽は再び軍を引き返して彭越を攻め、その間に、劉邦も引き返してくる項羽とまともに戦いたくないので、北に移動して成皋(河南省氾水)へと入った。項羽は戻ってきてこの城を囲み、劉邦は支えきれずに退却した。
夏侯嬰のみを供として敗走していた劉邦は、韓信軍が駐屯していた修武(河南省獲嘉)へ行って、韓信が陣中で寝ているところに入り込み、韓信の軍隊を取り上げた。更に劉邦は韓信に対して斉を攻めることを命じ、曹参と漢嬰を韓信の指揮下とした。また盧綰と従兄弟の劉賈には項羽の本拠地である楚へ派遣し後方撹乱を行わせた。
韓信はその軍事的才能を遺憾なく発揮し、斉をあっさりと下し、楚から来た20万の軍勢と龍且をも打ち破った。ただ斉を攻める際に手違いがあり、斉に漢との同盟を説きに行った酈食其が殺されるという事が起きている。
再び敗れる [編集]
紀元前203年、劉邦は項羽と対陣して堅く守る作戦をとっていたが、一方で項羽の後ろで彭越を活動させ、楚軍の兵站を攻撃させていた。項羽は部下の曹咎に「15日で帰るから手出しをしないで守れ」と言い残して出陣し、彭越を追い散らしたが、曹咎は漢軍の挑発に耐えかねて出陣し、大敗していた。漢軍は項羽が帰ってくると再び防御に徹し、項羽が戦おうと挑んでもこれに応じなかった。
その頃、韓信は斉を完全に制圧し、劉邦に対して鎮撫のため仮の斉王になりたいとの使者を送ってきた。これを聞いた劉邦は怒って声を荒げそうになったが、それを察知した張良と陳平に足を踏んで諫められ、もし韓信が離反してしまえば取り返しがつかないことを悟り、韓信を正式な斉王に任命した。
漢楚両軍は長い間対峙を続け、しびれを切らした項羽は捕虜になっていた劉太公を引き出して大きな釜に湯を沸かし「父親を煮殺されたくなければ降伏しろ」と迫ったが、劉邦はかつて項羽と義兄弟の契りを結んでいた事を持ち出して「お前にとっても父親になるはずだから殺したら煮汁をくれ」とやり返した。次に項羽は「二人で一騎打ちをして決着をつけよう」と言ったが、劉邦は笑ってこれを受けなかった。そこで項羽は弩の上手い者を伏兵にして劉邦を狙撃させ、矢の一本が胸に命中した劉邦は大怪我をした。これを味方が知れば全軍が崩壊する危険があると考え、劉邦はとっさに足をさすり、「奴め俺の指に当ておった」と言った。その後劉邦は重傷のため病床に伏せたが、張良は劉邦を無理に立たせて軍中を回らせ、兵士の動揺を収めた。
一方、彭越の後方攪乱によって楚軍の食料は少なくなっていた。もはや漢も楚も疲れ果て、天下を半分に分ける事を決めて講和した。この時、劉太公と呂雉は劉邦の下に戻ってきている。
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